プロローグ
ねえ? どうして何も言わずにいなくなったの?
そんなことを私は思いながら、目の前に現れたその人を、亡霊でも見るような思いで虚ろに見つめた。
あの暑くて、初めての気持ちを持て余していた夏。
どうして? どうして? いつまでも私はあなたに振り回されると、生まれたときから決まっていたの?
そんな運命は……いらない。
愛なんて知らずに生きていたかった。
そんなことを思いながら私は、急に真っ白になった視界を最後に、意識を手放した。
※※※※※
(蝉の鳴き声がうるさい)
「蝉だって一生懸命なんだから、そんなことを言ったらいけないでしょ」
(お母さんなら、そんなことを言いそうだな……)
そう思いながら、今日も朝からラブラブだった両親を思い出して、日葵は小さくため息をついた。
もうすぐ夏休みという7月中旬は、嫌になるくらい暑く、どこかの庭に咲いている向日葵さえ下を向いていた。
(いつも太陽のほうを向いてなんかいないよ……向日葵だって。水とか与えてもらえなきゃ無理でしょ……)
そんなことをブツブツ言いながら、制服のシャツの胸元をパタパタとさせ、真っ青な空を仰ぎ見た。
「ひま! 何ブツブツ言ってるんだよ! 早く来い」
相変わらずの上から目線の言葉に、日葵は苛立ちを隠せず歩みを止めた。
不満げな日葵を見て、少し先を歩く壮一は小さくため息をついた。
「お前がいると、俺が遅くなるだろ?」
うんざりするように言われ、日葵はその場に立ち止まった。
長谷川日葵、高1。
そして、同じマンションに住む2つ年上の幼馴染・清水壮一を睨みつけた。
(昔は優しかったのに……)
日葵は、幼稚園・小学校のころの優しかった壮一を思い出す。
日葵にとっては、兄であり、友達であり、いつも自分を守ってくれる存在だった。
両親が親友同士という家庭で育ったため、生まれたときから当たり前のように一緒で、小・中・高・大学まで一貫校の二人は、いつも一緒だった。
しかし、高等部に上がったころから、壮一はまるで別人のようになった。
壮一の周りには、いつの間にかきれいな女の先輩がいつもいて、日葵には声すらかけることがなくなった。
登校するときだけは、お互いの両親の命令で一緒に行っていたが、それすら日葵には、壮一が嫌そうに見えた。
「そうちゃん、もう明日から一緒に行ってくれなくていい」
冷たく真顔で言った日葵だったが、それよりもさらに冷たい表情を、壮一は日葵に向ける。
「はあ? そんなことしたら、俺が俺らの両親に怒られるだろ?」
父親譲りのきれいな黒髪の下、
(絶対、女装したら私よりそうちゃんのほうがきれいじゃん)
そんな苛立ちも含め、日葵はさらに言葉を強めた。
「朝、一緒に家だけ出ればいいでしょ? そうしたらバレないじゃん! そうちゃんってバカなの?」
「そういうこと言ってるから、お前はいつまでもガキなんだよ。そんなことしたら、お前の望む普通の生活じゃなくなるぞ。車で学校の送り迎えになる」
壮一の言葉に、日葵はウッと言葉を失う。
クルリと前を向いた壮一が動かないのを見て、日葵も仕方なく、大きなため息とともに足を踏み出した。
「日葵、おい、日葵」 少し身体を揺すられ、重たい身体を感じながら目を開けると、目の前に壮一の顔があり、日葵は思わず驚いて目を見開いた。「何、そんなに驚いてるんだよ」 くすりと笑った壮一に、日葵は昨夜のことを思い出して顔が熱くなる。「お前、思い出してるな?」 何もかもお見通しのように言われ、日葵はムッとして睨みつけるように壮一を見返す。「そんな顔も俺には煽りでしかない。可愛い」 その言葉と同時に、シーツの中で壮一の手が不埒な動きを始め、日葵はビクリと身体を震わせる。「って、違う違う!」 自分を律するように言いながら起き上がった壮一の動きで、日葵の裸の身体が露わになり、慌ててシーツを引き寄せた。「ああ、もっと日葵とベッドにいたいけど……年が明けるな」 「えっ!」 その一言で、今日は大晦日だったことを思い出す。さすがにこのままの姿で年を越すのは……と、日葵も急いで身体を起こす。ベッドの下に落ちた下着に手を伸ばしたそのとき、背後から壮一が覆いかぶさってきた。「やっぱり、年越しはやめて、ベッドで過ごそう?」 甘く艶っぽい声に、日葵も一瞬だけ心が揺れるが、グイッと壮一を押し返して真剣に見つめる。「来年は、ずっと一緒にいられるんでしょ?」 自分でも恥ずかしいセリフに思いながらも、しっかりと伝えると、また壮一のため息が聞こえる。「お前って、ほんと昔から変わらないな。俺を振り回す天才……」 そう言いながらキスを落とされ、唇が離れる頃には、日葵の呼吸はすっかり乱れていた。そんな日葵を満足そうに見つめると、壮一は「この続きは、また来年」と言って、ベッドから立ち上がった。「そうちゃん! 服、着てよ!」 「年を越す前に、シャワー浴びてくるよ」 その言葉に、日葵も急いで服を引っかけると、壮一に言葉をかけた。「私も、いったん部屋に戻ってシャワー浴びてくる」 「一緒に入る?」 悪びれもなく返ってくる言葉に、日葵はぶんぶんと首を振って否定する。さすがにそれは、まだハードルが高い。「私の部屋の方が色々あるから、後で来てくれる?」 年越しそばのことや、母が持たせてくれた料理のことを思い出しながらそう言うと、浴室から「わかった」と返事が返ってきた。部屋に戻った日葵は、大きく息を吐く。 さっきまでの甘い余韻が身体に残っていて、ようやく壮一とひとつに
「日葵だけが俺には特別だ。愛してるよ」その言葉にとうとう日葵の瞳から涙が零れ落ちる。この言葉がどれほど自分が嬉しいか言われてわかった。「私もそうちゃんだけだよ」泣き笑いで言うと日葵はそっと壮一の頬に触れた。その手を壮一が自分の手で握りしめる。「日葵のこと、大切にしたい。今の余裕のない俺じゃないときにしないとな」そう言うと、壮一は日葵の上から降りようとするのがわかった。「ダメ!」つい無意識に言葉が零れ落ちていて、日葵は自分に驚いて手で口を覆う。「日葵……?」(でも、でも、ここで勇気を出さなければ、また次の機会ははずかしくなっちゃう)日葵はそう思うと、壮一にゆっくりと語り掛ける。「そうちゃんのものになりたい……」自分の顔が真っ赤なのも、心臓の音がうるさいのもわかっていたが、これだけはきちんと伝えたかった。壮一が自分のことを考えてくれているのが分かったからこそ、もうこれ以上遠回りをしたくなかった。驚いたような表情の壮一の瞳がそっと閉じられたと思えば、次に見たその瞳は妖艶で熱を孕んだ初めて見るものだった。しばらく動きが止まっていた壮一だったが、何か覚悟を決めたような表情で日葵を見た後、無言で子供の頃のように日葵を抱き上げる、そのことに驚いて日葵は声を上げた。「ちょ……そうちゃん!」急にどうしたかと思えば、そのまま壮一の寝室へと向かうのがわかった。自ら誘う形になってしまった日葵だったが、ドキドキしてどうしていいのかわからない。そっと優しく真っ白なシーツに降ろされたときに、今から自分に起こることが知識として頭をグルグル回る。そんな日葵の瞳に、真面目な表情の壮一が映る。「日葵……俺が初めて?」その問いに、少し悔しくなりつつ日葵はうなずく。きっと勝ち誇った顔をしているのかと、日葵はチラリと壮一を見れば、そこには日葵の思う壮一ではなかった。「よかった……。間に合った……」心から安堵しているような壮一に、日葵は柔らかく微笑むと言葉を重ねる。「キスも全部そうちゃんしか知らないんだから責任取ってよね」その言葉にきょとんとした後、壮一は日葵の大好きな笑顔を見せた。「当たり前だ。日葵は何も考えなくていい。ただ俺を見てろ」言葉はそんな命令口調だが、日葵に触れる手はこれでもかというぐらい優しい。そのことが日葵は嬉しくて、キュッと心が締め付けられ
遠くない二人のマンションに着くと、壮一は無言のまま日葵の手を引いて自分の部屋の鍵を開けた。こんなに近くにいたのに、壮一の部屋に入るのは初めて。日葵は思わず緊張し、胸が高鳴る。「入って。特に何もないけど」「おじゃまします……」日葵の部屋には何度か壮一が来たことがある。でも、自分が彼の部屋に入るのは、それだけで特別なことのように感じてしまう。間取りはまったく同じなのに、部屋の雰囲気はまるで違っていた。整然としていて、ものが少なく、生活感がほとんどない。「何もないだろ? 寝るだけの部屋だから」ソファー、テーブル、テレビ……最低限の家具があるだけの空間に、日葵はなぜか落ち着かない気持ちになる。同じ空間にいながら、これまでとはまったく違う意味で“二人きり”でいることに、息が詰まりそうだった。「そうちゃん、忙しかったもんね」少しでも平静を保ちたくて明るく声を出し、部屋の中をぐるりと見渡していた日葵は、ふとソファに座る壮一の視線に気づく。「日葵」やさしく甘やかなその声に、思わずビクッと肩が跳ねた。ただ見つめられているだけなのに、何も言われていないのに、なぜか足が勝手に動く。ゆっくりと、日葵は壮一の座るソファへと歩を進める。すぐ目の前まで来たとき、壮一が何も言わずに手を広げた。(来いって、こと……?)ごくりと唾を飲み込んだ日葵は、悔し紛れのように言う。「そうちゃんってやっぱりイジワル」でも、そのとき向けられた壮一の笑顔が、あまりにも優しくて、懐かしくて――日葵は胸がいっぱいになる。「だって俺、ずっと我慢してたんだよ? 日葵に触れるのを。 でも今、急に変わった関係に戸惑ってるだろ?」図星を突かれ、日葵は言葉に詰まる。でも――「それ、違うよ」「え?」そのまま、日葵は勢いよく壮一の腕に飛び込んだ。予想外の行動に、壮一の腕は宙に浮いたまま動かない。「急に変わった関係に戸惑ってるんじゃない。 もっとそうちゃんに近づきたい。抱きしめてほしい―― そんな気持ちが自分の中にあることに、驚いてるだけなの」首に腕を回し、顔を隠すように埋めると、そっと耳元で囁いた。「……初めてなの。こんな気持ち」少し息を詰めるような壮一の声が返る。「初めてって……崎本部長は?」「付き合ってなんかないよ。ずっと好きって言ってくれてたけど、どうしても無
会社を出て、壮一の車で実家へ向かう途中。車内は温かく、静かで、どこか落ち着かない空気が流れていた。壮一は黙ったまま、日葵の手を弄ぶように優しく指先を触れてくる。今までとは明らかに違う。日葵の中に、得体の知れないドキドキが広がっていく。「……日葵、ドキドキしてる?」「なっ……別にしてません!」つい、嘘をついたことがすぐにバレる。「俺はしてるよ。小さいころとは違う“女”の日葵に」「なっ……!」言葉にならず、パクパクと口を動かすだけの自分が情けない。ちょうど赤信号で車が止まったところで、壮一がそっと手を握りしめ、身を乗り出してくる。「壮……」「もっとこの関係に慣れろよ」妖艶で綺麗すぎる顔が、今、自分だけを見ている――それだけで、鼓動は爆発しそうなほど跳ね上がる。目を見開いたままの自分に、そっと優しいキスが落とされる。そして唇が離れたあと、まっすぐに見つめてくる壮一の瞳に、日葵は息を呑んだ。(もうダメ……嬉しすぎて、苦しい……)信号が青に変わると、壮一は何事もなかったかのように車を走らせる。その横顔を見つめられずに、日葵は視線を窓の外へ向けた。煌びやかな街の灯りが、年の瀬を静かに彩っている。(この年で……本当の恋を知るなんて)心の奥で、静かに大きなため息をついた――それは、戸惑いと幸せが入り混じった音だった。「全員揃うのは何年ぶりだろうな」誠と弘樹の会話で始まったその会は、莉乃の手料理を囲みながら、和やかに進んでいた。久しぶりの年末の年越しはとても賑やかで、壮一も、誠真たちと久しぶりの再会を楽しそうに過ごしていた。その様子を見ているだけで、日葵は胸がいっぱいになるほど幸せだった。「そういえば咲良ちゃん、誠真がいろいろ待たせて不安にさせたんだって?」彼女の咲良とは今日が初対面。隣で控えめに笑う咲良に日葵が声をかけると、彼女は小さく頷いた。「そうですね。初めは何も言ってくれなかったので……」「ほんと、ひどい奴よね。ごめんね」笑いながら話していると、どこか慌てたように誠真がこちらに駆け寄ってきた。「姉貴、変なこと言ってないよな?」普段は余裕たっぷりで軽薄な印象さえある誠真の、焦った表情が珍しくて、日葵はついクスッと笑ってしまう。「こんな誠真、初めて見たかも」「うるさいよ」言い返す誠真がムッとした顔で日葵を見
あの日から年末まで、怒涛のように予約や問い合わせが入り、事業部は“嬉しい悲鳴”を上げ続けていた。本来ならもう年末年始の休暇に入っているはずだったが、日葵たちの部署だけは、年の瀬ギリギリまで出勤していた。「本当にお疲れ様。こんな最終日まで出てくれて、感謝しかない」すっかり元気を取り戻した壮一の言葉に、チームのメンバーたちは笑顔で首を振る。それほどの達成感があった。「年始は少し長めに休んでいいから。ゆっくりしてくれ」「はい!」活気に包まれたオフィスで、帰り支度を進める中、日葵はそっと壮一を盗み見る。あの日以来、ろくに会話もできていないまま忙しさに追われ、「気持ちが通じた」と言える確信もない。それにもう一つ、気がかりな存在があった。「長谷川さん、今年は本当にお世話になりました」可愛らしい笑顔を浮かべて柚希が声をかけてくる。日葵も笑顔で返した。「柚希ちゃん、あのね……」「あ、大丈夫ですよ。私は何も言ってません」「え……?」日葵が聞き返すと、柚希はふわりとした微笑みを浮かべた。「私がチーフに抱いていたのは、ただの尊敬です。なので、それ以上は言わなくて大丈夫です」きっとパーティー以降、社内では色々と噂になっていたのだろう。それでも先に自分を気遣うような言葉をくれる柚希に、日葵は心から感謝した。「柚希ちゃん、お疲れさま」静かに言葉を返すと、柚希はぺこりと頭を下げてフロアを後にした。その背中を見送りながら、日葵は小さくため息をつく。(柚希ちゃんの方が大人だな……ありがとう)自分の気持ちがわからず、たくさんの人を傷つけた。それでも譲れない想いがあった。もう、二度と迷いたくない。そう決意しかけたその時、背後に気配を感じて振り返る。「チーフ……」気づけば、フロアには誰もいない。壮一とふたりきりになっていた。ただそれだけの状況に、胸がドキンと跳ねる。何度も一緒に過ごしてきた空間なのに、前とは違う――恋人になった今、日葵の中の感覚はすっかり変わっていた。「終わった?」「……はい」視線を交わすと、壮一の瞳に自分が映っていて、照れくささから思わず目を逸らす。しかし、その視線を逃すまいと、壮一の瞳が日葵を追う。「あの日からゆっくり話せてなかったから。今日は……一緒にいよう」その一言に、日葵の鼓動はさらに早くなる。「うん……」
「部長がいるからって諦められるぐらいの気持ちなんでしょ!」叫ぶように言った日葵を、真剣すぎるほどの壮一の瞳が射抜いた。「そんなわけあるか!」声を張り上げた壮一の言葉には、これまでの葛藤が滲んでいた。「お前といるのが苦しくて……でも、会いたくて。そんな気持ち、お前にわかるか? 俺はずっと、自分の強引さで日葵を傷つけてきた。もう二度と……俺の勝手で、お前の幸せを壊すわけにはいかないんだ。だから俺は……」振り絞るように言ったあと、壮一は掴んでいた日葵の腕を離し、自分の手を爪が食い込むほど強く握りしめた。そんな壮一の姿に、もう耐え切れなくなった日葵は、その腕の中に飛び込んだ。一瞬、壮一の腕が反射的に日葵を抱きしめようとするも、どこか躊躇うように、その手は中空に戻る。しかし、それでも日葵は胸のうちを言葉に乗せて、必死に語った。「じゃあ……ずっと捕まえててよ。もう、私が不安にならないように。崎本部長には、ちゃんと謝ってきたの……あんなに素敵で優しい人なのに」子どもの頃のように泣きじゃくる日葵を、壮一は困ったように見つめた。「ひま……俺、本当はこんなに情けない男なんだよ。いつもカッコつけてただけでさ」弱く、探るようなその声に、日葵はキッと睨んだ。「そんなの、もう知ってる!」「それでも、俺がいいのか? お前を、何度も泣かせたのに」「それでも……それでも、そうちゃんがいいって思っちゃったんだから、仕方ないでしょ!」その言葉に、壮一は小さく苦笑する。「……やっぱりバカだな、日葵は」言いながら、そっと視線を逸らす日葵を、ついに壮一の腕が強く抱き寄せる。息が詰まりそうなほどの力に、日葵は思わず胸を叩いた。「ちょっと、そうちゃん……苦しい……」それでも、その腕の温もりが嬉しくて、恥ずかしくて、視線を逸らそうとする日葵の頬を、壮一の指がそっと掬い上げた。「……やばい。嬉しい。もう一生、泣かせない」そう言って、これまでどんな時よりも近い距離で——日葵の唇が優しく塞がれた。「んっ……!」初めてのキスに戸惑いながらも、壮一は迷いなく、その想いを深く刻み込むように日葵を包み込んでいく。「そうちゃん……もう……無理」切れ切れに声を漏らした日葵を、壮一はさらに抱き寄せ、耳元でささやいた。「絶対にもう二度と、お前を泣かせない。……大好きだよ」その言葉に